決闘の日という何というか不穏な記念日ですが、どういう由来からきているのでしょうか?そしていつが記念日なのでしょうか?調べてみました。
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決闘の日の由来は?
宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘をしたことが由来となっているみたいです。コレは結構誰でも知っている有名な話ですが、逸話の可能性もあったりするために正しい歴史かどうかも疑問です。
場所の源流島ってどこ?
どの辺だと思いますか?山口県の下関市の当時は無人島の島です。巌流島と呼ばれていますが、正式名称を船島と言います。巌流島と呼ばれるようになった由来は佐々木小次郎の流派が巌流でそこから由来が来ているみたいですね。
巌流島といえば猪木とマサ齋藤が戦ったのでも有名
プロレスファンなら有名な戦いですが、その当時は娯楽といえばプロレスという時代でしたので結構みんな知っている戦いだと思います。今でも巌流島で興行をする事もありますが、おそらく宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った聖地と言うところから来ているのでしょう。
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決闘の日はいつ?
コレが4月13日に決闘があったとされていますが、年代に関して書物によって曖昧で確実な言が言えないのです。宮本武蔵が19の時に決闘があったとされている書物は『丹治峯均筆記』で19歳ということは1602年になります。『兵法先師伝記』では18歳の時と書かれておりそうなると1601年ですよね。
しかし書物によっては宮本武蔵が20代の時に決闘があったと記されているものもあり、武蔵伝記、『武公伝』では1612年に決闘があったとされていて武蔵伝記、『二天記』でも1612年4月と描かれているようです。そして二天記内に試合の前日に記された書状が残っていて試合の前日が4月12日ということで決闘の日は4月13日ということが一般的に認知されているようです。
佐々木小次郎は架空の人物と言う説もある
宮本武蔵の弟子が書いた先ほど紹介した「二天記」にしか佐々木小次郎と言う名は登場していないのと、宮本武蔵本人が書いた五輪書には佐々木小次郎は出ていないところから架空の人物なのではという説があります。
佐々木小次郎と我々が呼んでいる人は実在したが正解
岩流の小次郎と記された書物はあります。『手向山武蔵顕彰碑』『沼田家記』『江海風帆草』『丹治峰均筆記』などで小次郎という名が記されています。佐々木小次郎という名にしたのはそれから随分とたって、小説で佐々木小次郎という名が定着しました。佐々木小次郎のモデルは存在したというのが正しい表現だと思います。
そもそも巌流島で決闘があったのが架空なのでは?
巌流島で宮本武蔵が誰かと戦ったのは事実みたいですが、それが佐々木小次郎だと書いてあるのは弟子が書いた「二天記」のみ。この「二天記」って戦いがあったとされた年から100数年も経ってから書かれた書物なので信ぴょう性も疑わしいです。
武蔵が遅刻して鞘を投げ捨てた小次郎のくだりは架空
宮本武蔵と佐々木小次郎と言えば「小次郎敗れたり!」の一幕だと思いますが、それは後で面白おかしく創作したものと言われています。書物的には遅刻も何もしていなかったそうです。
決闘の日のまとめ
・実際に巌流島の戦いは正確な日付は不明
・佐々木小次郎のモデルは存在しているが、結構脚色されている
・鞘を投げ捨てたくだりは架空
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